第20回 私流、未知の物に出会う楽しさ
第20回 私流、未知の物に出会う楽しさ
(コミュニケ2000年12月号掲載)
アンティークといえば最近では、すぐ「お宝鑑定団」が思い浮かばれるのは、実に困ったものだと思います。先祖が大富豪だったり、お寺の住職であったりして、その遺品を人に見せて、大先生に値踏みをしていただいて喜んでいるというのは、どうも上品な趣味とは言い難いものがあるように思えてなりません。。
常々、私はアンティークには2つのスタイルがあると思っています。1つはあまりにも芸術的価値が高すぎて、ただ飾っておくだけという物であり、もう1つは、自分で気に入って実際に使ってみようとして購入するものです。ただし普段はあまり使わずにとっておき、客があったときとか、特別のときにそっと出して使ってその商品の雰囲気や使い心地を楽しむものです。私は前者は美術骨董、後者を生活骨董と区別しています。
私は、この生活骨董こそがアンティークの醍醐味だと思っています。昔の名もない職人が作った品物が、「時」という不思議な味を付け加えられて、どんな高級な現代の物より人を喜ばせる物があります。これはいったい何なのでしょうか?
家具で例えれば、今の家具が工場でチップボードや合板を材料として大量生産され、無機質な全く味のない商品になり、やがては粗大ゴミになって消えてゆく運命にあるものと、昔の名もない職人が、1枚の木から丁寧に作り上げた家具との違いではないでしょうか。
私の店は、こうした今の生活に取り入れられる古い物を中心に、私の好きな物が置いてあり、いわば自我をモロダシにしているとも言えます。ある意味では、イギリスへ行って面白い物を物色し、お客様より先に自分が楽しませてもらっているのかも知れません。
それに西洋アンティークをやっている私たちは、上下関係や、先輩後輩のしがらみがないため外国へ買い付けに行けば、誰にも何の嫌みも言われないで仕入れができます。一方和物の業者は、仲間どうしのつき合いを大事にしないと、商品が入ってこない場合も多く、そのため気に食わない先輩でも我慢してつき合わざるを得ないのです。
アンティーク フェアー
このエッセイは10年以上前に書き上げたものですので、現在の状況と違う点があるかも知れませんがご了承下さい。